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神とはどういう存在なのか?

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神とは

あなたは、「神が本当に存在するのかどうか」疑問に思ったことはありますか。もし、神が存在するとしたら、一体神とはどういう存在なのか知りたいと思いますよね。

もし、人間で私が神だという人がいたとしたら、間違いなくそれは嘘です。神が一人の人間として宿ることはあり得ません。考えてみてください。宇宙を支配する神が人間の中に入ったとしたら、この広大な宇宙の支配はどうなるでしょう。(但し、こういうことは言えるかもしれません。神からの分霊という意味において、神と共通するものを人間は誰しも持っているということです。)

それでは、神について何か手がかりになる情報はないでしょうか。神について「シルバーバーチ」という霊が霊媒モーリス・バーバネルを通じてメッセージを送ってきています。

「シルバーバーチ」からの霊界通信を読むと、あの世の実態や神の存在についてより詳しく知ることができます。

シルバーバーチと霊媒バーバネルと古代霊

神とはどういう存在なのでしょう。

シルバーバーチは神(大霊)のことを次のように表現しています。

大霊とは宇宙の自然法則です。全生命の背後の創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。」「あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。」(スピリチュアリズム普及会 第2公式サイト 第7章より引用 引用についてスピリチュアリズム普及会が定める著作権の規定に従い、許可を得ています)

宇宙を創造したのは神です。神は、無限の昔から存在していました。何億年前に急に出現したというものではないようです。(つまり、いつということではなく、存在していた。ある日突然現れたわけではない。始まりが無いということ。シルバーバーチも、原初についてはわからないと答えています。)何百億年前のある日突然神様が出現したということではないということです。私は無という世界を創造することができません。私たちは、宇宙空間には何もないことを想像できますが、しかし、それさえ宇宙空間という「空間」が存在するわけです。酸素を含む空気はないけれど、そこに「空間」が存在しているのです。ですから、「何もない世界」とはどういう世界なのか分からないのです。「無」ってどういうこと?と思うのです。さらに、宇宙の果てを見たという人は誰もいないのです。果てがあるのかないのか、もしあるのなら、その向こうはどうなっているのと考えるときりがないのです。科学者はそれなりの説明をするかもしれませんが、私の頭では理解できません。

とにかく、神がいるのかどうか、霊界はあるのかどうか、死後の世界はあるのかどうか、せめてその部分だけでも分かりたいと思うのです。

神様は存在する。神様は「宇宙」と「霊界」を支配しているということが真実です。

「霊界」があると、シルバーバーチは述べ、霊界通信をしてきています。電気は目には見えないけれど、存在します。同様に神は目に見えないけれど存在するのです。「シルバーバーチ」と名乗る霊がいたこと、そして、その霊が何十年もの間、霊媒バーバネルを通して通信をしてきたこと、その霊界通信が行われた場所に多くの著名人も参加したことから霊界があることは間違いのない事実だと考えられます。そして、そのシルバーバーチの語る言葉がいかに論理的であるかは、その言葉を読めば理解できます。シルバーバーチの言葉を信じるならやはり神様は間違いなく存在するのです。しかも、2000年前人々に愛を伝えたイエスキリストも間違いなく今も霊界にいて、この地球上を救おうとしているのです。もちろん、これはシルバーバーチという霊の存在とその語った言葉を信じた場合の話です。

神と人間の関係

神と人間の関係は、「創造主」と「被造物」の関係があります。神は人間がこの世に生まれるときに、神の分霊を与えました。そのため、人間は、神から分けられた分霊(もともと神の一部)と、意識する心(精神)と肉体を神から頂いたということになります。

そして、人間の本質は永遠に続く分霊こそが真実の人間であるということになります。肉体は人間界を渡るための言わば船です。この船は、現代科学をもっても、人間が作り出すことのできないものです。

何の計画もなく、遺伝子が用意されたわけではなく、全て計画されて一人の人間の肉体ができているのです。

人間以外の生命は神によって生命を与えられていますが、人間だけは、肉体に神の「分霊」を宿しているのです。神と人間は、霊的につながっていて神性を共有しているのです。(「シルバーバーチの霊訓」潮文社より。)

考えてみれば不思議なことです。ありのような小さな生き物も、自由に動き回っています。バクテリアとよばれる微生物も自由に動き回っています。その活動のエネルギーは一体どこからくるのでしょう。やはり、神によって生命が与えられ、活動エネルギーを与えられているというわけです。

最初の人間はいつ、神によって創られたか?

神の年齢が無限の過去だとします。宇宙の年齢が138億年と言われていますが、(137億年と言われていたものがさらに1億年昔になりました)宇宙の年齢と神の年齢が同じものとは考えていません。神は宇宙ができる以前からいて、宇宙を創ろうと考え宇宙を創ったと考えます。神は宇宙だけでなく、霊界の王様でもあります。霊界の神が物質の世界を創ろうと計画されたと考えます。

それでは、神の分霊として創られた初めての人間はいつ創られたのでしょう。

この疑問について、答えは、はっきりしません。人類がこの地球上に誕生したときがいつなのか誰も分かりません。わかることは、過去の人骨が発見されて人類に近い存在がいたということだけです。

昔学校で習った、クロマニヨン人(後期旧石器時代、約4万年~1万年前)やネアンデルタール人(約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種)が現代人とどのような関係にあるのかは分かりません。ウィキペディアによりますと、「遺骨(化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果に基づき、現在ではネアンデルタール人は我々の直系祖先ではなく別系統の人類であるとする見方が有力である。2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説が発表された」としています。

神はなぜ、人間を創造したか

神は、人間だけでなく、万物を創造するお方です。この自然界にある物すべてを創造されています。神とは、万物を創造された方です。空気も水も植物も鉱物も、あらゆる地球上に存在するものを「創造」されました。そして、人間を創造されました。

神が人間を創ろうと思った御意志は神にしか分かりません。ただ分かっていることは、人間は霊と肉体で構成されていて(肉体と霊をつなぐものもあるようですが)、「霊性の成長を目的として生かされている」ということです。そして、この「地上界を調和させるために存在している」ということです。

「神が人間に直接関与してこないわけ」はこちら

霊のレベル

自分中心で周りへの愛のない人より、自己犠牲をして周りの幸せのために生きる人の方が霊性が高いのです。価値観というものは、人によって違うものですが、自分中心の人より他者への愛を施せる人の方が霊性は高いのです。人間は本質的に、自己犠牲をして他者のために生きる人を尊いと感じる感性をもっています。

霊性が高いとか低いということにどんな意味があるのでしょう。これは自分自身の納得だと思います。例えば、我先にとバスの座席を確保したとします。順番を守って座れなかったとします。われ先にバスに乗り込んで座席を確保して得をしたような気がしますが、その「われ先に」という心を自分がどう納得するかです。座席には座れなかったけど、順番を守ったのだから仕方ないと思う心があるはずです。「見かけ上の損得」と、「意識の上の納得度」が違うのです。

神の姿

神様の姿を、男性でひげをはやして杖を持っているような人として思い描かないでしょうか。女神ということなら、ギリシャ神話に出てくるような女神を思い描かないでしょうか。実際に誰も見たことがないので、美術館で描かれている人としての神様を思い描きがちです。

ところが、「真実の神の姿」は、「無形の存在」のようです。シルバーバーチは神の形を次のように言っています。

神は無形で無限の存在です。私たちの心を無限大に拡大したような存在と言えます。神は存在するもの全ての中に宿っている存在です。また、神はあらゆる場所に存在します。(シルバーバーチの霊訓より)

「神は無形の存在」という言葉は意外に感じます。でも、それが真実なのかもしれません。私たちの心は目に見えません。結局、あの世では、想念がイメージした形を取るようですので、神様も姿として表すときには、神がイメージした姿を表現するだけなのかもしれません。そのエネルギーたるやこの宇宙全体を支配する大きさですから、計り知れない大きさです。

神の大きさは、無限大の大きさです。「無限」という言葉は、なんとも表現のしようがないものです。我々は地球という限られた世界にいるのですから、無限がどのようなものか創造することができません。

神は、物質界にも霊界にも存在しあらゆる場所に存在する」ということはどういうことでしょう。目の前にあるコーヒーカップにも存在するということでしょうか。神のエネルギーが物質化したものということに思えます。E=MC2 よりM=E/C2 質量あるものは、すべてエネルギーを内に内在しているといえます。エネルギーがあれば、逆に物質化することも可能ではないかと思います。神とは、大いなるエネルギー的存在で、その大きさは計り知れない大きさです。

※E = mc2について(以下ウィキペディアフリー百科事典より引用)

エネルギー E =質量 m×光速度 c の2乗

の物理学的関係式を指し、「質量とエネルギーの等価性」とその定量的関係を表している。アルベルト・アインシュタインにより、特殊相対性理論の帰結として、1905年の論文『物体の慣性はその物体の含むエネルギーに依存するであろうか』内で発表された。

この等価性の帰結として、質量の消失はエネルギーの発生を、エネルギーの消失は質量の発生をそれぞれ意味する。したがってエネルギーを転換すれば無から質量が生まれる。(引用はここまで)

光のエネルギーについてはもう一つ式があります。

光のエネルギー=(プランク定数)×振動数=(プランク定数)×(光の速さ)÷(波長)

というものです。

光のエネルギーは「振動数」によって決まるのです。

 

神は霊界・物質界の全てに対して愛を与えている。

全ての摂理(法則)は神の愛によって機能しています。

神様の本質は「愛」ということはどういうことでしょう。イエスキリストも神の愛を説いています。この世において、一番価値のあるものは愛であると、人間は、直感的に分かっています。憎悪より愛の方が良いと誰しもわかっています。神が摂理(法則)を作ったとしても、それらは、神の愛なくしては機能しないものだというのです。

ところで「愛」とは何でしょう。自己愛ではありません。他者の幸せを願う心です。「自分の為」という心は「他人の為」という心と比べると、前者は自分中心の発想です。自己中心とか身勝手という心は、なぜか尊敬できません。人間は人間同士区別をつけていますが、神からすれば、どの人間も神の一部なのです。

神は至上の善と公正であることについて

神は「至上の善で公正」な存在であるということは人間にとって幸せなことです。もし、神が悪で不公正な存在であったらどうなるでしょう。善とか悪とかの判断は人間の価値基準によって決めていることかもしれませんが、神という大きな霊は、間違いなく万物が正しく起動するよう計り知れない智恵によって支配されています。

神は光の速度を超える速さの伝達手段を持っている

神が宇宙は宇宙を支配する存在で、神はすべてに存在するとしたら、秒速30万キロメートルといわれる速さとは関係なく、何億光年先の天体があったとしても、神の意識の中にあるということになります。物質としては、光より速いものとしてタキオンというジェラルド・ファインバーグによって命名された超光速粒子の一つがあるようです。

神はこの世(物質世界)とあの世(霊の世界)をつくられたとき、秩序を保つために摂理をつくられた。

この世には一定の法則があります。それらの法則を全て神が用意されました。E=MC

これもその法則の一つです。法則があることで、秩序は保たれます。もし、法則がなければ、この世は無秩序な世界となってしまいます。

植物の種を想像してみてください。わずか1ミリから3ミリ程度の種が植えられ、水をまくと、しばらくして芽がでてきます。それらはいずれ成長して、みごとな花をさかせます。すべて、そのような成長の過程を通って大きくなることが計画されているのです。

神の摂理へ

自由意思の法則について考える

神は、人間に対して自由に考えることを許されました。人間は、自由に何を思う事もできます。何をする事も自由意志に任されています。そのため、その自分勝手な思いによって、悪も善も思うのです。何が悪で何が善なのかについて、これは人間のその時の社会通念で決められていますが、神の目から見た善悪とは必ずしも一致しないかもしれません。

善とか悪とかを決める判断は難しいのですが、これは神の目から見たらどうなのかなと考えると良いかもしれません。

ところで、神は、なぜ人間に自由意思を与えたのか。自由意思があるがゆえに、人間は自分勝手な生き方をしています。

すべきことより、自分の楽しみを優先してしまいます。自分が楽しみたいから楽しいことをするという考えもあるでしょう。しかし、それは、時には回り道を行くことになるかもしれません。

そういうことがあるとしても、神は私たち人間に自由に生きることを計画されました。

人は、どれだけ周りから注意されても、自分が気づけないと、いつまでたっても同じ過ちを繰り返します。自分から気づく事を神は大事にされているようです。

神はなぜ、利他愛を摂理とし、利己愛を良しとしないのか

そもそも、なぜ利他愛が神の心に叶い、利己愛は神の心の望むところでないのでしょうか。

神は全くの善であり、悪ではない。これはどうしてでしょう。

このことは良いことで、あれは良くないということが、国によっては、全く反対の場合があります。それは、その国の伝統とか習慣によって、人間が築いてきたものです。

ところが、「利他愛と利己愛」という観点で見るとき、利他愛は、神の心に叶うもので、利己愛は神がよしとはしないものだと思います。これは、国の価値観とは関係なく絶対の摂理のようです。

イエス・キリストの生き方や考え方を神の心とするなら、「自分の敵と思われる人さえ愛せよ」ということになります。

自分だけの幸せを願う心は、やはり狭いということです。自分も幸せになりたいけれど、他者も幸せになってほしいと願うのが大事です。

人間は、心の奥底で繋がっているから、他者もやはり自分の一部ということでしょうか。人間の元が神の一部であったのですから、他者も神の一部なのです。霊についてどのようなものか分かっていませんが、霊とは、神の分身のようなものと言えます。霊の本質は奥深く、人間にはその真実が分かっていません。

他者は、他人に見えても、結局は霊としてつながっている存在だと言えそうです。

キリストの愛について

私たちは、神から直接、人間とはこういう存在なんだよと教えてもらうことはできません。

その代わり、キリストが直接に人間に神とはどういう心なのかを教えてくれました。私がキリストのことを書いているので、私がキリスト教徒のように思われるかもしれませんが、私の家は仏教です。ただ、これも先祖から引き継いでいるためにお寺の世話になっているのです。

私は、ただ、神とはどういう存在なのだろうとつきつめて考えていると、やはりキリストの教える愛こそが神の愛なのではないかと思えてきます。

人間は、自分のことを愛することは大切な事だと思います。それは、どのような生まれであろうが、どの人も神の分霊なのですから。

私は利己愛を否定するつもりはありません。自分自身を愛することも私は大切な事だと思います。但し、神は、自分を愛するように他者も自分を愛するように愛しなさいと言っているのだと思います。なぜなら、他者は神の一部であり、自分自身も神の一部だとするなら、皆つながっているということです。人間の体で言うなら、一人ひとりがひとつの細胞ですが、全体として、人間の体を構成していることになるのです。

日本人の素晴らしさ

「神とはどういう存在か」というテーマなのですが、この見出しの項目を設けました。

私は、以前から人間の転生輪廻についてこのサイトで書いてきました。転生輪廻(輪廻転生)ということは、人間は、何度も国を変えて生まれかわることがあるということです。しかし、これから述べるいくつかの話は日本人を褒めることになります。ただ、これは、この国が長い歴史の中で、日本に住む人たちの努力や霊性を高めるために少しずつ積み上げてきた努力の成果なのだと思います。

一つ目の話

地下鉄の電車とホームの間に足をすべらせて出られなくなった人がいました。その時、駅員さんに協力して多くの人が電車を押して隙間を作ろうとしたことが世界中にニュースとして知らされました。外国だったら、こういう場合みんなは見ているだけだということが書かれていました。日本人は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という心を表現できる民族なのですね。これは、日本人の心の中には人のために他者を思う心が育てられてきたためだと思います。本当は、他国においても同様のことができる心があるはずです。

2つめの話はまた別の機会に

 

神様
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