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徳川綱吉と生類あわれみの令

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徳川綱吉の再評価

江戸時代の五代将軍と言えば徳川綱吉。小学校や中学校で、徳川綱吉と言えば「生類あわれみの令」というように覚えた記憶があります。

この令は、「生類を憐れむ」ことを目的とした「動物、嬰児、傷病人の保護を目的としたいろいろな法令をまとめて言ったものです。

保護の対象となったのは、捨て子、病人、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などです。これらの法令によって影響を受けた人は、この法令を悪法と評価しています。ところがこの綱吉のしてきたことが良いこととして評価されるようにもなってきています。

なぜ、綱吉は生類あわれみの令を出したか

この法令を出すにいたった理由については諸説があります。

貞享4年の町触では、生類あわれみの政策は「人々が仁心をはぐくむように」と綱吉が思って出したと説明しています。

儒教を学んだ綱吉が仁政を理由に鷹狩の行事を大幅に減らして、自分自身も鷹狩をしないことを決めています。1682年に自分の子どもが5歳で病死して、そのことがもとでさらに生類に対する憐みの心が増していったと考えられます。

どのような法令が出されたか

(以下は、ウィキペディアフリー百科事典「生類憐みの令」を参考にしています。)

1682年 犬を虐殺したものを極刑にした

1684年 会津藩に対し、鷹の献上を禁じる

1685年 将軍御成の道では、犬・猫をつながないで放してよい。

1686年 大八車で犬や猫をひかないように注意すること

1687年 病気の牛馬を捨てることは禁止

1688年 旗本大類久高が法令違反を理由に処罰

1695年 鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじ      め10人が切腹、1人が死罪。

以後も1700年頃まで法令によって処罰されたりしています。

悪法と評価される一方で別の見方もある

幕府からだされたきまりを守らなかったため、人間が切腹や死罪、流罪などさせられたとなると、人間の命は大切でないのかとなりますが、これらの法令が当時の社会に良かった面もあるという評価があります。

関ヶ原の戦いは1600年。1603年に徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府創立。1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣。と、戦国時代が続いていました。家康の後、秀忠、家光、家綱、綱吉と続きます。

綱吉が生きた時代は、1646年2月23日から1709年2月19日。3代将軍家光の4男として生まれています。この時代は、まだまだ人の命が軽んじられる時代だったようです。

武士の社会では、節義を通すためならば人の命を軽んじることを良しとする社会。一般社会では、捨て子や間引きもよく行われていました。旅宿で、重病人がでると、屋外に放置する。

そんな命が軽んじられる世の中を、慈悲の光で照らしたいと考えたのが徳川綱吉でした。動物愛護の精神を政治の力で具現化しようとしたのです。

その法令の運用については、ケースバイケースでむやみに違反者を処罰するのでなく、状況を判断しやむを得ない状況などは考慮されています。

綱吉の時代以降、この法令が出されたおかげで命を大切にする風潮が世に広まり、人殺しが減ったともいわれています。

 

 

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