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自己犠牲の法則

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「自己犠牲」について考える

「自己犠牲の法則」で検索しました。すると、一位にきていたのは、「自己犠牲は誰も幸せにしない」というサイトでした。また、「自己犠牲より自己受容」というサイトも上位にきていました。

「自己犠牲」についてのとらえ方はいろいろあるのですね。

人間にとって「自己犠牲」とはどういう意味をもつのか、みなさんも考えてみてください。

「自己犠牲」の精神は「霊性」という観点においては、重要な精神として位置づけられています。人間がこの世に生まれてきたのは、「霊として成長するため」が目的だと言われています。そして、再生の人生のある人は過去につけた「カルマの清算」のための人生でもあります。

そして、「霊的な成長」のために必要な生き方は「利他愛の実践」と「霊主肉従」という霊的意識を中心とする生き方だと言われています。

この2つの生き方をするときに、「自己犠牲」という概念が入ってきます。自己犠牲の精神で「利他愛」を実践すれば、さらに霊性が輝ということです。

インターネットで「自己犠牲の法則」で検索すると、「自己犠牲」のとらまえ方がいろいろで、「自己犠牲」の精神は良くないという解説をしているサイトが意外と多いのです。私はどちらの言い分が正しいのだろうと自問自答しました。

人間が生まれてきた目的は、「霊的な成長のため」というこの目的を達成するために、必要なことは何か。その観点で考えることが大事ではないかと思います。また、「神様の目」から見たらどう見えるかという視点が大事だと思います。人間は、結局のところ神様の被造物です。神がどのような人間だったら喜ぶのかと考えれば、神が喜ぶのは、「自己犠牲をしてでも他者を救おうとする人間」ではないでしょうか。もちろん、神様なんかいないと考える人にとって、このような考え方は意味をなさないでしょう。神とはどういう霊かと言えば、それは、イエスキリストの生き方を見ればわかると思います。キリストは、自分自身の運命を知っていました。ユダが自分を裏切ることも知っていました。十字架にはりつけになる前に、他の弟子たちがキリストを知らないということも知っていました。しかし、キリストはそのことを受け入れ、はりつけになり、自分をはりつけようとする人々を憐れんでいました。そして、神にその人たちのために祈ったのです。

「自分の敵を愛せよ」とする発想が一般の人にはないと思います。宗教戦争と言えるものは、自分たちの考えと相いれないものは抹殺せよという発想で、キリストの「自分の敵と見えるものまでも愛せよ」という発想とは天と地ほどの差があるのです。

かわいいものを愛するのは当たり前。そうでないものを愛することのできる人は霊性の高い人なのです。

キリストの生き方を見れば、「自己犠牲」がいかに重要かが分かります。

自分が殺されることを知った上で、人類のために十字架にはりつけられたのです。自己犠牲では幸せになれないという考えがありますが、神とどう向き合うかという心のあるキリストにとって、自分の幸せがどうなるかどうかより、人類の幸せがどうなるかどうかに重きをおいていたのでしょう。

財産より、地位より、人類の幸せがどうかというような神と同様の視点で生きる人は尊いと感じる感性を我々はもっています。損か得かで判断するのでなく、神にどう向き合うかどうかという視点なのです。

ただ、これも神の存在を信じない人にとっては、受け入れないことなのでしょう。

「自己犠牲」について、次のような考え方もあります。

「自分の生活を犠牲にし、家族や周囲に迷惑をかけてしまう、度を越えた奉仕活動は、法則を誤解している」としているサイトがありました。

この意見には、なるほどと思いました。

「自己犠牲」については、その動機や家族や周りへの配慮などいろいろな面を考えていくことも大事ですね。

この論議のある「自己犠牲」ですが、自分自身との葛藤の中で考えていきたいと思います。

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救助されるとき、自分を後にしたために亡くなった人

昔、事故で船から投げ出された人が何人かいました。その時、ヘリコプターが救助に来て、順番に溺れかけの人を救助していました。その中で、ある男性は、自分を後回しにして、他の人の救助を優先するよう救助者に言いました。そのために、その男性の救助に向かったときには、すでに男性は溺れて見えない状態になっていました。

この人は、自分の命と引き換えに他者を救ったのです。2000年前のイエスも自分の命を投げ出して人々を救いました。

もう一つの例があります。14人の溺れそうな人を救い、最後に力つきて自分が溺れて死んでしまった人がいます。

こういう生き方はなかなか普通の人ができるものではありません。

命と引き換えの自己犠牲ですが、みなさんはどう受け止めますか。

シルバーバーチが教える「自己犠牲」

シルバーバーチは次のように言っています。

我欲を棄て、他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。『シルバーバーチの霊訓(1))』(潮文社)

自分の利益を後回しにして他者のことを考える」ことは、なかなかできることではありません。

自己中心的な発想のバイブレーションより、自己犠牲の心が発するバイブレーションの方がより神に近い波長なのでしょう。人間は、それがなかなかできないけれども、自己犠牲の精神で行動する人の方がより尊敬できることを認識できます。

但し、先にも述べたように、「自己犠牲」というものが、他者の犠牲の上にある自己犠牲だとこれは真の自己犠牲とは言えないかもしれません。

世界のリーダーアメリカ

アメリカが「自国優先」という方向性を打ち出していますが、神の目から見たときにどのように映っているのでしょう。確かに政治家は国益を優先させることで自国民の安全を守ろうとします。それが国民から任された役目だからある意味当然です。しかし、アメリカのような経済大国で世界のリーダー的な国は、地球全体を考えた政策を進めてほしいと思います。

私たちのできる小さな良いこと

政治家でもない我々は、身近な所で小さな善行を積むことで霊的成長を計っていくのが良いのでしょう。

「家族のためのお手伝いを進んでする」「進んでゴミを拾う」「体の不自由な人に手をかす」そんな小さな行為の積み重ねから始めればいいと思います。人のためになることをすることが、自分自身の霊性を高め自分にとっても本来の目的を果たすことにつながると思います。

「自己犠牲」をやめれば、人生は驚くほど好転するという考え

あるサイトで、このようなタイトルで自己犠牲について述べていました。このサイトの論理はなるほどと思えるところもあります。

次のような言葉に納得する面もあります。「誰かのためにやるのではなく、それを「わたしがやりたい」からやる!」という考えです。「自分自身にも人に対しても、過度な期待も依存もしない」と、書かれていました。

結局は「自己犠牲をしている」という発想が良くないのです。自分が人のために我慢していると思う考えは、その発想の中に誰かのせいで自分が我慢しているというような考えがあれば、それは、発想の根底に不満があるから幸せにはなりません。

人は自分と同じ人間。うまくできないこともあればミスもする。自分も同じ。自分に余裕がなければ、自分のことで精一杯で人のことを考える余裕がありません。

だけど、要領よく仕事をこなせば、人のためにやってあげる時間も生まれます。

日々の仕事では、要領よく仕事を片付けていくのも大事です。そうすれば、あいた時間は人助けにも使えます。人を助けるのは趣味程度に思っている方が楽です。

 

 

神様
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