スポンサーリンク

苦しみは「償いの法則」

スポンサーリンク
スポンサーリンク

スポンサーリンク

苦しみは悪いことではない、神が用意したものである

苦しみは悪いものではなく、その苦しみを受けることによって、これまで自分がしてきたことによる罪を償っているのです。罪とは、神の作った摂理に反する生き方です。

全ての霊は「魂の成長をめざす」というシステムの中で存在しています。なぜ、神は人間に苦しみを与えるのか。それは、人間が霊的成長できるよう神が計画したものです。つまり間違った生き方をしてきた場合(前世もしくは今世において)に、カルマの清算という形で苦しみを味わっているのです。苦しいから、「どうしてこんな苦しみを味わうのだろう」と悩み、自分を振り返るのです。

私たちはこれまで苦しみはできるだけ「避けたいもの」「いやなもの」として、逃れたいと考えてきました。

しかし、苦しみが償いであるならば、償いをすることによって、罪を清算できるのですから「借りた借金を返しているのだ」と思うことができます。

苦しみが来たとき、「これで、借金が減っていく」と、思えば、苦しみは悪いものではないのです。そうは言っても苦しいものは苦しい、痛いものは痛い、一刻も早くこのつらさから逃れたいと思うのは普通のことです。しかし、これによって自分の罪を償っているのです。

罪は償わなないままには済んでいかないのか。

この世の中には、借金をして借金を返さないまま逃げてしまう人がいます。悪いことをして、そのまま時効が来るまで逃げとおす人もいます。

しかし、神の摂理の法則は例外なく、どの人にも働くようになっています。どういうことかというと、摂理違反の生き方に対して、必ず償いという場面がになってから訪れるのです。それは、機械的な正確さをもって実行されるのです。この「」には、どのくらい後か個人差があります。

因果律の法則は、必ずしも悪いことばかりではありません。神が喜ぶ行為に対しての結果も後からやってくるのです。悪い種をまけば、悪い結果を刈り取らなければならないし、良い種をまけば良い結果を得るのです。

身に覚えのない苦しみを味わうのはなぜ?

「自分がなぜ、こんな苦しみを味わわなければならないのだ」と、いわれのない苦しみを味わうことがあるかもしれません。わけのわからない自分勝手な人から自分勝手な発言をされ苦しみを感じることがあるかもしれません。

それも、「全てあなたの過去に償うべき出来事があったから」だと言われたら、そんな言葉に腹が立つでしょう。

毎日の生活の中で、私も自分勝手な相手の言葉によって苦しむことがあります。相手の言葉に反論すると、さらにそれを超える勢いで責められることがあります。負けずに言い返しても結局、心が乱れ、苦しみだけが残ります。

相手のために、神に祈るのが最良の方法です。

 

苦しみに対して感謝の言葉「ありがとうございます」

と、言うと不思議と心が安らぎます。

苦しみや悲しみの値打ち

「苦しみは悪いものではない」むしろ、神からの贈り物なのです。

この人生において、何の苦労もなくあの世に帰ったらこの世で何を学んだのでしょう。苦しみがあるからこそ、そこから教訓を学び自分を鍛えるのです。

シルバーバーチは悲しみについて次のように述べています。

悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。

苦しみや悲しみは避けたいものです。しかし、私たちがこの世にまれてきたのは魂の成長のためです。苦しい、悲しいという現実に向かい、自己を見つめそれを教訓として乗り越えていくから価値があるのです。

マイナスと思うことが本当は、自分にとってプラスなのです

シルバーバーチが次のように言っています。

「苦しみの中で過ごす時間は、その苦しみの償いとして得られる喜びにくらべれば、実に些細なものに過ぎない」

 

神様
スポンサーリンク
すーさんをフォローする
スポンサーリンク
すーさんのブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました