神はなぜ、利他愛を摂理とし、利己愛を良しとしないのか
そもそも、なぜ利他愛が神の心に叶い、利己愛は神の心の望むところでないのでしょうか。
神は全くの善であり、悪ではない。これはどうしてでしょう。
このことは良いことで、あれは良くないということが、国によっては、全く反対の場合があります。それは、その国の伝統とか習慣によって、人間が築いてきたものです。
ところが、「利他愛と利己愛」という観点で見るとき、利他愛は、神の心に叶うもので、利己愛は神がよしとはしないものだと思います。これは、国の価値観とは関係なく絶対の摂理のようです。
イエス・キリストの生き方や考え方を神の心とするなら、「自分の敵と思われる人さえ愛せよ」ということになります。
自分だけの幸せを願う心は、やはり狭いということです。自分も幸せになりたいけれど、他者も幸せになってほしいと願うのが大事です。
人間は、心の奥底で繋がっているから、他者もやはり自分の一部ということでしょうか。人間の元が神の一部であったのですから、他者も神の一部なのです。霊についてどのようなものか分かっていませんが、霊とは、神の分身のようなものと言えます。霊の本質は奥深く、人間にはその真実が分かっていません。
他者は、他人に見えても、結局は霊としてつながっている存在だと言えそうです。
地球は一つで、どこかの国だけが特別扱いではない
先の、「利他愛を良しとし、利己愛を良しとしない」という考えを国レベルで考えるとどうなるでしょう。いま世界は、自国優先の方向に流れているように思います。国レベルとなると、領海、領地、国益などそれぞれの立場があるので、その考えを政治の世界に生かすことが難しいのかもしれません。
アメリカは、メキシコとの間に壁を作って移民が勝手にこないようにしようとしています。これについては、アメリカ国内においても議論があります。
ベネズエラの国では、政治と経済が混乱していて、300万人以上が難民となって国を離れているようです。インフレ率1000万%という信じられないような数字です。(他のサイトの情報です)1日1食を与える余裕のないくらしを余儀なくされているようです。
国が違えば、話す言語、教育、文化、経済、政治のあり方が違い、国によっては、その日食べていくのがやっというのが今の世界です。
日本の国は今でこそ、教育においても、高水準ですが、明治時代にどの人も学校に行けたわけではありません。教科書の無償制度や、給食という制度ができたのも、国民によるいろいろな運動の結果できたものです。
外国によっては、女性差別が残り、女性の権利を奪う国もあります。
それらの問題を、克服していくには、まだまだ時間がかかると思いますが、今は、まず、その日の暮らしに困っている難民の人たちを救う、国家レベルの支援が必要な時期です。
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