こんにちは、すーさんです。今日は人間が幸せになるためにしなければならない「利他愛」と「肉主霊従」について話題とします。
利他愛の実践
「利他愛」とは、他の人が幸せになるように愛することです。
それでは、なぜ、「利他愛」が人間に必要なのかについてお話します。
「人に親切にすれば幸せになれる」
「自分を愛するように人を愛すれば幸せになれる」
なぜ、このような事が言えるのでしょう。
そもそも、人間がどのように生まれてきたかから考える必要があります。
人間が生まれてきた仕組み
これについては、私のサイトの他の記事でも述べていますが、人間は、肉体と霊の2つからできています。(肉体と霊をつなぐ物もありますが)
その霊はどこから来たのかというと、大元は神の霊(大海にたとえます)から分かれて(コップ1杯の海水にたとえます)きました。分かれていると言っても、霊の本質は神と同質のものです。
その霊がそれぞれの人間に宿っているということは、もともとは同じ神から来ている分霊ですから個々の人間は霊の一番奥ではつながっていると言えるのです。
つまり、他人だと思っている人も神の一部であり、自分も神の一部であると言えます。海に浮かぶ小さな島々は別々の存在ですが、海底深いところでは一続きです。それと同じような状況と考えると分かりよいのではないでしょうか。
つまり、他人は個々には他人だけれども、霊の深奥部ではつながっていると考えます。このことは、ユングの心理学において、深層心理(潜在意識)がつながっているとする考えと同様です。
つまり、他者と自分とはつながっていて、他者は自分でもあると言えます。人間は60兆ほど(37兆との考えもある)の細胞からできていると言われています。同様に人間一人ひとりを一つの細胞と考えるなら、一人ひとりがそれぞれの役割を担って全体を構成していると言えます。
結局他人は、自分とつながっているのです。
すると、こういう事が言えます。隣人に親切にして隣人を幸せにすることは、隣人の霊を喜ばし、その喜びは霊の深奥部でつながっている自分への喜びとなって帰ってくるということです。
利他愛は他者を愛することではあるけれども、結局は相手への愛はめぐりめぐって自分に戻るということです。
「霊主肉従」が幸せへの道
この「霊主肉従」についてはこのサイトの別の記事でも述べていますが、霊の意識が肉の意識より主体的に考え動くことが大事です。霊の意識とか肉の意識とはどういうことかはここでは省略します。
人間には、常に霊の意識と、肉体からくる意識が同じ心の中で葛藤しています。肉の意識は自分中心に考え肉の欲求が強いので、ついつい自分中心の発想となってしまいます。そうなると、霊という一段高い位置からの視点ではなく、全体を考えてでの考えでないため、独りよがりの部分が生じてしまいます。
なかなか自分中心の発想を克服するのは難しいのですが、自己反省によって、少しずつ霊主肉従の発想と行動をすることで、利他愛の行動がとれるようになり、結果的に自分から出た愛がめぐりめぐって自分に戻るのです。
大きなたらいに水があるとします。手前の水を前方へ押しやると、結局自分のところに水が戻ってくるのと同じしくみです。
以前、このサイトの別記事で書きましたが、因果律の法則によって、良いことをすれば、良い結果が、悪いことをすれば悪い結果がやってくるわけです。
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