この言葉の意味は、「仏の広大な慈悲をもっても仏縁のない人は救えない。人の言葉を聞き入れない者は救いようがない」大辞林より
どれだけ忠告しても聞きいれようとしないものには救いようなないという意味で使われる言葉です。
なぜ、このことわざを引用したかというと、私ごとですが、自分の息子にどれだけゲームばかりしていては良くないと忠告してもやめようとしないからです。
私の息子と同級生の男の子は、父親が注意をすると、ゲームの途中でも親の注意を聞くそうです。
私の息子にどれだけ注意しても「黙れ」と返ってきます。自分の教育が間違っていたのでしょう。親が何回忠告しても聞き入れません。
ゲームを触っている時間は常識的に考えても異常です。深夜もさわり、朝の4時5時6時ということもたびたびです。
契約書も交わして購入したアイパッドですが、その約束が守られません。ですから、
縁なき衆生は度し難し
なのです。
小学校、中学校、高校という時代は、人生において大変重要な時期です。この期間に勉強をすることがとても大事です。
昔二宮金次郎という人がいました。伝記で読んだことがあります。小学校などには銅像が建てられていることが多かった人です。背中に芝(まき?)を背負い歩きながら読書している銅像です。
昔の人の中には二宮金次郎さんのように寸陰を惜しんで勉強している人がいました。
野口英世という人もそうです。不自由な手であっても、その困難を乗り越え頑張りました。
今の時代に育つ息子は、何の苦労もなく、ゲームにのめり込んでいます。
しかし、私が何百回と忠告しようが、聞く耳をもちません。人生における大事な時間をゲームやアニメ動画を見ることから離れられないのです。
大人になってから反省するかもしれませんが、その時には時遅しだろうなと、思います。
仕方ないですね。
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